現象学について初めて触った

大学の教養科目で履修している哲学の講義にて

「眼前に映るものは隣の人と同じか」という問いが出された。わたしはこの題について出され、取り組むまで「現象学」という哲学の分野があることを知らなかった。分野として存在を知らなかっただけで、何となく頭に浮かび似た思考をしたことは多くあったので所謂「現象学的態度」というものに感覚はあった。またフッサールの掲げる本質主義直観主義から始まり諸々をある明快な記事があったので目を通した。感想はシンプルで「究極的に直観を明証することは出来なくて、相対主義懐疑主義に陥ってしまうこと、対象への関係が実現されていない意識の働きのことを空虚な意味志向や空虚な意味作用と呼ぶことにするか~はぁ虚」といった感じで、私の壮大で誰も分かってくれないと思い込んだり妄想することは先人、いや昔の暇な「頭の良い」人が考えつくしているだろうという、予てから頭に浮かんでいた「哲学おもしろそうだなぁ~」というこれもまた妄想・思い込みは正しかったということだ。「それなりに」次回の予習も兼ねて冒頭の問いについて考えた(笑)ので「ボクノカンガエタサイキョウノコタエ」を貼っておく。

冒頭の問の筆者の考え

隣の人と見ているものは「同じ」であり「同じ」とは言えない。前者の「同じ」とは主観的・直観主義に則った場合だ。対して後者は客観的・本質主義に則った場合だ。眼前にカバンをありありと「想像する」ような志向と、眼前にカバンを「知覚している」充実された志向では、そのカバンという対象へと向かう志向の充実の度合いにおいて、後者のほうが明証的だ。しかしもちろんこれはカバンという対象への志向が、知覚という直観によって充実されたということであり、眼前にあるカバンという超越的なものの現実的な存在をそのまま証明するものではない。つまり今与えられた感覚与件が、志向性において意味把握的に統握され活性化されたのであり、その限りでこのカバンという対象が与えられたのだ。そして、この志向された対象が対象そのものとして現在的かつ直接に意識あらわれることこそが、対象の明証的な自体能与なのだ。だがこのような明証的な知覚も、その対象すべてがありありと十全的に現れているわけではなく、未だ知覚されていない部分を持っている点や、想起や想像などの準現在的な直観と関係している点において、完全に明証的といえるわけではない。もし対象の現実的な存在の証拠である十全的かつ完全な明証が与えられるとすれば、それは内在的な直観によるものなのであり、外的知覚つまり超越的な直観によってそれが与えられることはなく、超越的な対象の現実的な存在の定立はその可能性が他の可能性に対して「比較的高い」場合になされるという蓋然的なものに留まるのだ。しかしまた、我々の認識の妥当性は根源的には明証を与える直観によってしか確かめることが出来ず、それゆえに明証的直観こそが「一切の諸原理の原理」といわれるのであり、その明証性の妥当性すら、反省的な明証的直観によって誤りを正していくことでしか証明することが出来ない。